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yuuの一人芝居

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小説 めぐり来るときに(新連載開始)

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めぐり来るときに

1

 歩いてきた、そしてこれから歩くのか、逢沢は立ち止まって思った。

「暑いわね、庭に出て草むしりをしていたらこんなに汗が・・・」
 手拭いで額の汗を拭きながら育子が書斎に入って来た。
「ここは天国だわ」そう言って椅子に腰を落とした。
 今年の夏の暑さは異常であった。
 何十年ぶりの暑さが連続続いていたのだ。 書斎と居間にクーラーを慌てて取り付けたほどである。高台にある家はいい風が入り今まで扇風機で涼をとっていたのだが、今年は歳の所為か余計に暑さが身に染みたのであった。
「なにもこんな日に草むしりをすることはないだろうに・・・」
 クーラーをきかせて机に向かい書き物をしていた逢沢雄吉は、妻の育子にそう返した。五十八か、もうそんな歳になるのだなと思いながら育子を見た。
 育子と連れ添って三十二年になっていた。逢沢雄吉は今年還暦を迎えていた。
「あなたより私は若いのですからね・・・」
 育子はたしかに若かった。家への坂道を毎日何往復しても息を切らすこともなかった。運動のつもりよと言って車で行けばと言っても乗らなかった。
「同じように年を過ごしているょ」
 逢沢は庭に目線を投げた。たしかに昨日まで花木の繁る下に伸び放題であった雑草がなくなっていた。
 逢沢は定年退職後毎日家にいて書斎に篭もり自分誌を書き始めたのであった。三十八年間勤めようやく開放された時間を自由に楽しもうとしたが、何をしていいか分からず、だんだんと淋しさだけが増幅された。それが焦りを生んだ。これでは駄目だと苦慮している時に新聞で定年後に自分誌を書いている人の記事を読んで、やってみるかと思い始めたのだった。昔から書くことは苦手ではなかった。手紙を書き日記をこまめに付ける質であった。
 育子は二人だけの向かい合う生活が嫌だとばかり外に出ることが多くなった。お茶にお花、書道に英会話と、公民館の講座を片っ端から受講しだした。
 二人の新しい生活が奇しくも逢沢の定年退職を機に始まったのであった。互いに元気ならなによりと老境という未知の世界に踏み込もうとしているのだった。若い頃なら明日を考えることもなく当然訪れると約束されたように生きることが出来るが、六十を過ぎれば後はその約束は外され未踏の地への旅路であった。
「これからが第二の人生だ。今まで出来なかったことをするつもりだ」
 逢沢と共に定年退職をした加納が眼を輝かせながら言った。彼は八百万もする新車を買ったのだった。彼にとってはそれが定年後の心の空白を埋める方法だったのだ。高価な買物をするという贅沢が今までの拘束や約束というしがらみから開放され、定年後の空虚な心を満たし、そのことで余裕を生み出し未来へと導こうとしたのであろうと逢沢は思った。辺りを見るとそれがブームのように仲間が大きな新車を買っていた。
「あなたも買ったら、今まで通勤用の小さな車だったのですもの、どーんとここで買ってみたら気分も世間も変わるかもしれないわょ。六十なんて今では働き盛りではないの。それにお金を残しても喜ぶ人はいないんだし」
 加納の話をしたとき育子はそう言って囃したてたのだった。
「いいよ、いまので、僕らしくて・・・買いたい奴は買えばいい」
 逢沢はそうは言ったものの還暦になったら真っ赤なスポーツカーを買おうと考えていたのだった。老境へ向う初老の男が真っ赤な車を颯爽と走らせるそんな姿を想像して北叟笑んでいたのだった。だが、加納に先を越されてその気持ちは萎えていった。大きな車に一人乗って遠くへ旅行をするという目的もなく近場を乗り回し、パチンコやカラオケで時間を潰すそんな生活はしたくないのだと言いたかった。それはステータスとは言わないのだ。
 彼は迷った。これからの人生に何を拘って生きればいいのか、生き続けるために何か目標が欲しかったのだ。そんな時、新聞を見たのだった。父と母、そして自分の事を、遡り過ぎ去りし遠い昔を、その流れを書こうと心に決めた時、なぜか心身が安らぐのを感じた。
「今日、なにか美味しいものでも食べに行きましょう。毎日毎日机にへばりついていたら身体に良くないわ。たまには気分転換をしなくては」
 育子は書斎の窓から外を眺めながら言った。
「作るのが億劫になったんだろう」
「作るのが億劫なのではなく、こんな暑い日には食欲もないし・・・たまには・・・と思って・・・」
「場所を変えれば食欲も湧きますか?」
「そうよ、そうだわ」
 庭の向こうに国道二号線が通っており車の往来がよく見えた。夜は光の帯の流れだった。それは美しい夜景であった。
「何と言ったかな、新しく出来た・・・」
「ドイツレストランでしょう、行きましょうょ。この前、英会話の講座の帰りに仲間と行ったのょ、安いし美味しくていいい店よ」
 育子は嬉々としていた。
 二人には子供がいなかった。生まれるか生まれないかを出来るか出来ないかを神の采配に任せた。幸か不幸か子供に恵まれなかった。子供が生まれていれば二人の人生は変わっていたかもしれないのだ。孫らに囲まれて笑いが絶えなかったろう。子供の話は二人にはタブーになっていた。が、その平安が子供が生まれて育てる過程で煩わしい事も起きたかもしれないのだ。煩わしくても良い子供がいてくれたらと何度か思ったことがあった。
 人生を何もかも、吉として受けとめなくてはと、逢沢は思うのだった。
「行こうか」逢沢は短く答えた。なにも断る理由はなかったからだ。たまにはいいか、心の洗濯。それまでに書く区切りを付けておこうと原稿用紙に鉛筆を走らせた。
 夕暮が雲を焼きながら暗闇の中に溶け込んでいく。庭にある柿の木が赤く染められた西空の中で黒く浮き出て見えていた。
 逢沢の頭にはなぜか「赤とんぼ」のメロディーと歌詞が浮かんできた。最近、童謡唱歌に惹かれる自分を発見して何故と自分に問うのだった。初めの頃は書斎で原稿用紙に向かう時にはモーッアルトをバックミュージックとして流していたが、今では由紀さおりや石川さゆりの童謡を聞きながら書く事が多くなっていた。
 建物はドイツの牧歌的な造りにし、中は古い家を移築した柱や梁が露出された木組みが走り、細い木を斜めに組み仕切りとし席を設け、煉瓦の壁と厚板を無造作に打ち付けた壁が落ち着いた風情を醸し出していた。吹き抜けの屋根からドイツ人の気質を思わせるシンプルな照明器具が吊り下げられていた。その空間にドイツの民族音楽が流れていた。近在に住む家族が三々五々と集いつかの間の至福の時を過ごしていた。コーンのスープとエビフライ、ステーキ、コロッケ、ハンバーグ、フランクフルソーセージがメーンで、野菜サラダが添えられていた。コーヒー、紅茶はセルフサービスでお替りが自由だった。
 逢沢は育子を真正面から見詰めた。前髪に白いものが散り始め頬には化粧では隠せないしみが転がっていた。手の甲には皺が多く見られた。
 何年振りだろう。忙しくてこのような時間を育子と過ごしたことはなかった。と、逢沢は思った。
 勤めていた頃は、坂の登り降りが育子の負担になるだろうと、休みの日には一週間分の買い出しに出掛けたものであった。季節の野菜は僅かの庭に植えて面倒を見ていた。レタス、キャベツ、大根、ヒーマン、トマト、ナスビ、葱、日頃使うであろう野菜は菜園をして賄っていた。二人の生活にはそれだけで十分であった。
 水をやったり肥料をまくのは逢沢の役目だった。穫り入れは育子だった。



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